Masukそこには、丸みのある、だが大人らしく整った細い文字で、こう書かれていた。
『今日も楽しかったね、七海ちゃん』
真帆の手から、ペンが滑り落ちそうになった。
真帆の字ではない。担任の男性教師の武骨な字でもない。 それは、学校や学童の連絡帳に保護者以外の第三者が勝手に書き込むはずのない、個人的で親密なメッセージだった。 付箋の端を指先でつまんで剥がしてみる。粘着剤が小さくシャリッと音を立てた。 どうして、子どもの連絡帳にこんなものが挟まっているのか。悠人は「地域のワークショップの講師」と言った。「木曜日に何度か、カフェで工作を見てもらっただけ」と言った。 それなのに、なぜこの女は、家庭と学校をつなぐ唯一の書類である連絡帳にまで、当然のような顔をして足跡を残しているのか。 「真帆?」 背後から突然かかった声に、真帆は跳ね上がるように振り向いた。 いつの間にか書斎のドアが開き、悠人が廊下に立っていた。手に温かいハーブティーの入ったマグカップを持っている。 「連絡帳、何か書いてあった?」 真帆は咄嗟に、付箋を握りしめて自分の手のひらの中に隠した。紙の角が皮膚に刺さり、微かな痛みが走る。 「……ううん。明日の持ち物の連絡。体操服がいるって」 「そっか。七海、もう寝たかな」 「今から見に行こうと思ってたところ」 「じゃあ、ハーブティーここに置いておくね。飲んでから寝なよ」 悠人はマグカップをテーブルに置くと、真帆に優しく微笑みかけ、自分の寝室へと戻っていった。その足音には何の迷いも、隠し事をする者の焦りもなかった。 真帆は握りしめていた手をゆっくりと開いた。 汗ばんだ手のひらの中で、小さなペールピンクの付箋がくしゃりと歪んでいた。◇
七海の部屋は、廊下の突き当たりにあった。
ドアノブを静かに回して中に入ると、常夜灯の淡いオレンジ色の光が、小さなベッドを照らしていた。 掛け布団からはみ出た七海の足先を、真帆はそっと布団の中へ押し戻した。七海はすやすやと規則正しい寝息を立てている。枕元には、七海が幼い頃から気に入っているクマのぬいぐるみが転がっていた。 ベッドの脇にしゃがみ込み、真帆は娘の柔らかい頬にそっと触れた。 生まれた時のこと。初めて「ママ」と呼んでくれた日のこと。熱を出して一晩中抱きしめていた夜のこと。積み重ねてきた七年間の時間が、頭の中を駆け巡る。 自分こそがこの子の母親だ。誰にも奪わせないし、誰も代わりになんてなれない。 真帆が手を離そうとした時、七海がうーんと小さく身悶えした。長いまつ毛が揺れ、くりっとした目が薄く開く。 「……ん……ママ?」 「あ、ごめんね、起こしちゃった? 大丈夫だよ、寝ていいよ」 真帆は娘の頭を優しく撫でた。 七海はまだ夢とうつの間にいるようで、焦点を結ばない目で真帆を見つめていた。そして、真帆の手を自分の小さな両手でぎゅっと握りしめてくると、かすれた声でぽつりと言った。「ママ」
「なぁに?」 「沙耶ママもね……ママのこと、知ってるよ」部屋の空気が、ぴんと凍りついた。
エアコンの微かな送風音すら、遠くへ消えていく。 七海はそれだけ言うと、満足したように長いまつ毛を閉じ、再び規則正しい寝息を立て始め、真帆の手をゆるめた。 真帆は、自分の手が娘の小さな手からこぼれ落ちるのを、止めることができなかった。 指先が冷たい。 家庭の外側にいる見知らぬ女。 その女が、自分の知らないところで娘と会い、自分と同じ「ママ」と呼ばれ、そして――自分の存在を、知っている。 暗闇の中で、真帆は硬直したまま、娘の小さな寝顔を見つめ続けていた。それからの二日間、悠人からの連絡はパタリと途絶えた。 追及のメールも、電話も来ない。 真帆は在宅勤務の時間を調整しながら、七海の学校への送り迎えを徹底した。登校時は真帆が校門まで付き添い、下校時は学童の出口で待ち構えて七海の手を握った。 学童の吉岡先生も、学校の教頭先生も、事情を察して厳重に注意を払ってくれていた。 悠人が学校周辺に現れたという報告もなかった。 七海は菜月の家での生活に少しずつ慣れ、夜は真帆の隣でぐっすりと眠り、朝は菜月が焼いてくれたトーストを美味しそうに食べていた。 木曜日の夕方。 真帆は七海を連れて、菜月の部屋へ戻ってきた。 外は蒸し暑く、夕立が来そうな重い雲が空を覆っていた。「ママ、今日のお夕飯なぁに?」 七海が玄関で長靴を脱ぎながら、弾んだ声で尋ねてきた。「今日はね、七海の好きなハンバーグだよ。菜月ちゃんが合挽き肉買ってきてくれたから」「わーい! 七海、玉ねぎこねるのお手伝いする!」「ありがとう。手、きれいに洗っておいでね」 七海はパタパタと手洗いに走り、真帆は買ってきた食材を冷蔵庫にしまっていった。 キッチンのカウンターで玉ねぎをみじん切りにしていると、トントンという規則的な音が静かな部屋に響いた。 七海が手洗いを終えて戻ってきて、ローテーブルの上に置いてあった自分のお絵かき帳を開いた。 クレヨンを握り締め、楽しそうに紙の上を滑らせている。 真帆は包丁を動かしながら、微笑ましい気持ちで七海の背中を見つめた。 これでいいのだ、と思った。 あの男から離れ、自分の足で立ち、七海の安全を守っていく。最初は不自由で、狭い部屋での居候生活かもしれないが、七海の弾んだ声を聞けるなら、どんな苦労も耐えられた。「ママ」 七海がクレヨンを持ったまま、ふと顔を上げた。「なぁに?」「今日ね、パパとお出かけするの」 トントン、とまな板を叩いていた包丁の手が、ぴたりと止まった。 真帆の全身の血が、一瞬で引いていく感覚があった。
スマートフォンの画面に並んだ文字を見つめたまま、真帆は静かに呼吸を整えた。 翌朝。菜月の部屋のキッチンで、コーヒーメーカーがコトコトと低い音を立てて湯を落としていた。香ばしい苦みが部屋に満ちていく。 画面に表示されていたのは、前日に悠人から届いたメッセージだった。『家族三人で、七海の八歳の誕生日をお祝いしよう』『僕たち、やり直せるよ』 怒りや高圧的な態度を一切見せず、ただ傷ついた善良な夫として許しを乞う文面。 かつての真帆なら、この温かな言葉に揺らいでいたかもしれない。自分の感情の方が冷酷で、夫の優しさを無駄に踏みにじっているのではないかと自責に沈んでいただろう。 だが、真帆はもう迷わなかった。 画面上のフリック入力を素早く動かし、返信を作成する。『旅行には行きません。七海の誕生日も、三人でお祝いするつもりはありません。これ以上の連絡は控えてください。やり直す意思はありません』 送信ボタンを迷いなくタップした。 画面上の文字が「送信済み」に切り替わる。 真帆はスマートフォンをテーブルの端に置き、出来上がったコーヒーをマグカップに注いだ。黒い液体がカップのフチまで満ち、湯気が鼻先をくすぐる。 悠人がどう反応してくるか。 怒り狂って電話をかけてくるか、それとも「君は本当に冷たい人だな」と傷ついた振りをして罪悪感を煽ってくるか。 真帆はカップを両手で包み込み、身を固くして待った。 しかし、十分が経過しても、半時間が経過しても、電話は鳴らなかった。 一時間後、スマートフォンが短く一回だけ振動した。 真帆は息を呑んで画面を開いた。 送信者:篠宮 悠人『分かった。君がそこまで嫌なら、無理強いはしないよ。 今まで僕の都合ばかり押し付けてごめんね。七海と二人で、ゆっくり過ごしてくれ。 仕事もあまり無理をしないようにね』 拍子抜けするほど、あっさりとした返信だった。 追求も、引き留めも、怒りの言葉すら入っていない。ただ真帆の意思を尊重し、素直に引き下がった男の、哀愁を帯
真帆の手の中で、スマートフォンが小さく震えていた。 完璧な謝罪。 完璧な撤回。 自分に非があったと素直に認め、真帆の自由を返し、優しく復縁を求めてくる姿勢。 もし、真帆が九年前の事故に残る不自然さや、偽アカウントの証拠、そして物件資料が示すものに気づいていなかったとしたら。「私が考えすぎていただけかもしれない」「夫は本当に反省して、やり直そうとしてくれているのかもしれない」と、その優しさにほだされ、家へ戻ってしまっていたかもしれない。 証拠を突きつけられた後でも、悠人は怒鳴るのではなく、以前と変わらない「優しい夫」の顔で、真帆に戻るよう促してきた。 その優しさこそ、真帆が長いあいだ自分の違和感を飲み込んできた理由の一つだった。 真帆は冷え切った目で画面を見つめ、返信を打たずにスマートフォンを伏せた。 テーブルに伏せた端末の光が消えると、部屋には急に生活の音だけが戻ってきた。キッチンの換気扇、冷蔵庫の作動音、隣の部屋で菜月が衣類を畳むかすかな音。悠人のいない場所には、説明を求められない静けさがあった。 真帆は両手を膝の上に置いた。以前なら、返信しないこと自体に罪悪感を覚えていたはずだ。相手が謝っているのに無視する自分は冷たいのではないか、と。今は、その反射のような罪悪感が胸の奥に浮かぶのを、ただ見送ることができた。 揺らぎはしなかった。 真帆はもう、その優しさだけを根拠に悠人の言葉を信じて戻ることはできなかった。◇ その頃。 自分の造形教室の準備室で、アコーディオンカーテンを閉め切って座っていた水城沙耶のスマートフォンが、静かに振動した。 沙耶は震える手で画面を取り出した。 準備室の棚には、子どもたちが乾かしている紙粘土の動物や、切りかけの色紙が並んでいた。ついさっきまで聞こえていた教室の笑い声はもうなく、残っているのは絵の具と糊の匂いだけだった。 沙耶は作業台の端に手をつき、指先に力を込めた。自分が七海へ近づいたことも、境界を越えたことも消えない。それでも、もう悠人の言葉だけを現実の基準にしてはいけない。そう決めたばかりだった。
午後三時。 安全の確保と、手続的な防壁の構築をすべて終えた上で、真帆はついに悠人へメッセージを送る決意をした。 あの夜、家を出てから。 悠人からは家を出た夜から何度か「どこにいるの?」「心配してるよ」「三人で話そう」とLINEが届いていたが、真帆はすべて既読をつけずに無視してきた。 感情的な問い詰めや、LINE上での説明合戦に入るつもりはなかった。議論を始めれば、悠人はまたあの滑らかな論理で真帆の言葉をすり替え、真帆を「ヒステリックで支離滅裂な妻」へと追い込んでくるからだ。 真帆はノートパソコンの画面で文章を作成し、推敲を重ねた上で、短く悠人のLINEへ送信した。『七海と一緒に、安全な場所にいます。しばらく家には戻りません。七海との面会や連絡も、当面の間は拒否します。今後のやり取りは、すべて書面か代理人を通して行ってください』 感情的な怒りの言葉は一切排除した。 ただ、事実と拒絶の意思だけを込めた一文。 送信ボタンを押すと、画面上の文字が「送信済み」となった。 真帆はスマートフォンをテーブルの上に置き、深く息を吸い込んだ。 これで、宣戦布告は完了した。 悠人がどう反応するか。怒り狂って電話をかけてくるか、警察に捜索願を出すと脅してくるか。真帆はどんな攻撃にも耐えられるよう、身体を固くしていた。 しかし。 わずか五分後に届いた悠人からの返信は、真帆の予想を遥かに裏切るものだった。 画面がポッと点灯し、悠人からのメッセージが表示された。『真帆。急にいなくなって、本当に心配したよ。でも、無事でよかった』 真帆は眉をひそめた。 怒りの気配すら微塵もない。文章は続き、画面を埋めていく。『君をここまで追い詰めてしまっていたなんて、僕の配慮が足りなかったよ。本当にごめんね。仕事のストレスや、家庭のことで君がどれだけ大変だったか、僕が一番理解してあげなきゃいけなかったのに。 僕が全部悪かったんだ。君を不安にさせるような言動があったなら、何でも謝るよ』 昔の、優しい悠人だった。
午後一時。 真帆は菜月の部屋のローテーブルで、持ち出してきた重要書類のコピー作業を進めていた。 七海の保険証、母子手帳、真帆名義の銀行口座の通帳、戸籍謄本。そして、共用端末に残っていた偽アカウントと送信済みメッセージの画面、五月十三日のスマートロック記録と悠人本人の宅配便受領記録、室内写真の比較画像を印刷した紙。 それらを三つのファイルに分け、一つは自分が持ち歩くバッグへ、一つは菜月に預け、もう一つは弁護士への相談用に保管した。 万が一、悠人が家に押し入ってきて荷物を奪おうとしても、証拠と書類が分散されていれば立ち直ることができる。 作業がひと段落した頃、真帆のスマートフォンが短く震えた。 画面を見る。 表示されていたのは、水城沙耶の番号だった。 真帆は一瞬躊躇ったが、通話ボタンをタップした。「……もしもし、水城さん」『……篠宮さん、沙耶です』 沙耶の声は、先ほど電話で話した時よりも幾分落ち着いていた。だが、声の裏側には、自分という存在が篠宮家を脅かしてしまったことへの、消えそうにない罪悪感が漂っていた。『七海ちゃん……大丈夫ですか?』「ええ。妹の家にいます。学校や学童にも連絡して、お迎えや緊急連絡先の変更をお願いしました」『そうですか……よかった……』 沙耶は安堵の息を漏らした。 真帆は静かに、だが線を引くトーンで言葉を継いだ。「水城さん。ひとつ、お願い……いえ、約束してほしいことがあります」『はい……なんでしょうか』「今後、七海に直接連絡したり、学校や習い事の場所に会いに行ったりすることは、絶対にやめてください。七海へのプレゼントや手紙も、一切受け取れません」 電話の向こうで、沙耶が息を詰めた。 真帆は容赦なく言葉を重ねた。「あなたが悠人に騙されていた被害者であることは理解しました。でも、あ
午前十一時半。七海が菜月のリビングで絵本を読んでいる間、真帆はスマートフォンを手にベランダへ出た。朝の欠席連絡だけは菜月が学校へ入れてくれていたが、今日から先のことは、自分の言葉で正式に伝えなければならない。今回の避難を一時的なものにせず、戻らないための壁を一つずつ作る必要があった。◇ まず、七海の小学校へ電話をかけた。 真帆はスマートフォンを握りしめ、菜月の部屋の狭いベランダで呼び出し音を聞いた。 湿った風が、真帆の髪を揺らす。 数回の呼び出し音の後、教頭先生が出た。「あ、篠宮です。七海の母です。急なご連絡ですみません」『ああ、篠宮さん。こんにちは。七海ちゃん、体調はいかがですか?』「教頭先生、実は……家庭の事情で、今日からしばらく七海を休ませます。……いえ、病気ではありません。夫との間で別居の手続きを進めていまして」 受話器の向こうで、教頭先生が息を呑む気配がした。 真帆は迷わず、準備していた言葉をハッキリと口にした。「今後、夫が単独で校門にお迎えに来たり、七海を連れ出そうとしたりしても、絶対に引き渡さないでください。お迎えは私か、妹の長谷川菜月のみで行います。下校時の付き添いも、私が行きますので」『承知しました。事情を記録して、担任と学童にも共有します。お父様がいらした場合はその場でお渡しせず、まずお母様に確認を取ります。変更届についても、ご案内します』「ありがとうございます。よろしくお願いします」 続いて、学童保育所へ電話をかけた。 出たのは、七海が学童へ来なかった日に電話をくれたベテラン指導員の吉岡だった。「吉岡先生、篠宮です。以前、学童のお迎え許可者カードに『水城沙耶』という名前が登録されていた件ですが……」『はい、お父様が登録された……』「その登録が外れたままになっているか、確認してください。それから、今後は夫の篠宮悠人が一人で迎えに来ても、私に連絡するまで七海を引き渡さないでください。緊急連絡先も、私と妹